前回私のブログの最後で予告した、高森明勅さんとの動画『時事楽論』での「『永遠の0』は傑作か愚作か」が、実はその日の内にUPになりました。
http://www.nicovideo.jp/watch/1390377273
僕と高森さんの意見がどう違い、どこが共通しているのか、ご覧になってくだされば幸いです。
そして、よろしかったらぜひご意見を教えて下さい。
ご参考までに、この収録の前、私が自分のやっているメルマガ『映画の友よ』に書いたレビューを全文掲載いたします。
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日本映画ほぼ全批評
■永遠の0
真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦、ラバウル航空隊、そして敗戦直前の少年兵による特攻隊と、先の大戦における有名な航空戦がフォローされている。
昭和の戦記映画ならば、このような場合、指導者クラスの人間を主軸にし、おのおのの点描として現場の兵士たちが描かれたと思う。
ところがこの映画の主人公・宮部久蔵(岡田准一)は、現場の海軍航空兵であり、すべてに立ち会っている存在だ。
それを可能にするため、天才的な操縦の腕は持っているが乱戦になると逃げ回ったため、生き延びたが現場に配属され続けている……という属性を主人公に与えている。
このような人物が、軍法会議にもかけられずリンチ的な制裁も受けない(殴られる描写は多少あるが)で「海軍一の臆病者」と後ろ指さされる程度で済んでいることへの疑問は、既に映画誌でも出されている。
だが私はそれ以上に、宮部以外の人間はみんな死に急いでいたかのように描かれるのには、正直抵抗を持った。
そもそも、戦争に行った人間イコール死をも厭わない存在だというのは、後の時代から捉えた短絡的見方であり、兵士たちは意外にドライに生きていたとする当事者の手記もある。戦場では必ず死ぬとも思っていなかったし、かといっていざという時の覚悟は誰をもってしても忘れたことがなかったであろう。
むろん、戦争末期に出てきた「特攻」という概念はまた別格としても。
だが宮部久蔵を一個の人格ではなく、仲間の死を見届け続けるいわば<軍隊の精霊>的存在として描いていると捉えれば、この映画の語り口は、それはそれとして成立していると言えなくもない。
同じ兵士たちの死を背負い続けてきた彼が、自ら特攻死を遂げる段になって、この映画は、彼の死と入れ替わるように生き残った元特攻隊員役の夏八木勲に、未来の時間から、こう言わせている。
我々は特別な人間ではない。あの時代の人間は、多くのそれぞれの思いを胸に秘めながら、口には出さずに生きていたのだ……と。
ここで、主人公がすべての兵士個々の思いを通貫する存在であったことが観客にとってより明確になり、その瞬間、彼の特攻そのものが描かれる。
多くは敵の艦隊に突撃を果たす前に散っていったと作中でも語られる特攻隊員だが、それまで操縦の腕前だけは神がかり的だと描かれていた人物だ。敵の艦隊に見事たどり着き、激突する。
すべての特攻隊員がそうありたかった特攻を果たして、彼は逝ったのだった。
この物語は、主人公の孫(三浦春馬)が現代から、複数の証言を得ながら祖父の実像を確かめていく過程と重ね合わせて描かれる。現代の青年にとって、すぐには呑み込めない「特攻」という決断が、たしかにあり得たこととして追体験出来る瞬間までの物語だと言っていい。
証言者の一人を演じる夏八木勲が、すでに故人であることをわれわれ観客は知っている。不治の病を宣告され、『永遠の0』が遺作となった夏八木の口を借りて「生き残った者がしなければいけないことは、その死を無駄にしないことだ。物語を続けることだ」とメッセージされる時、それ自体が虚構の役柄を超えて、生きた遺言となり見ているこちらも粛然とした気持ちになる。
そこまで見せられた観客にとって、孫である現代青年の前に突如として、ゼロ戦に乗った祖父が時空を超えて出現し、敬礼するCG合成場面も、もはや笑い物にはなり得ない。
監督・VFX・脚本 山崎貴
原作 百田尚樹
脚本 林民夫
撮影 柴崎幸三
出演 岡田准一
三浦春馬 井上真央
濱田武 新井浩史 染谷将太
三浦貴大 上田竜也 吹石一恵
田中泯
山本學 風吹ジュン
平幹二朗 橋爪功
夏八木勲
公開中
全国劇場
公式サイト http://www.eienno-zero.jp/index.html
メルマガ『映画の友よ』
yakan-hiko.com/risaku.html
第3号より転載